『下戸田の由来』(2008.3月 vol.7)

「浦和郷土文化会」会長 中 村 徳 吉

新編武蔵風土記稿(文化・文政ごろ)によれば、下戸田村は「民戸百五十五 大抵中山道ノ往還ニ並住ス」とあり、多くの人たちが中山道の近くに住んでいて、商家や諸職を営み、それより離れたところには、農家が点在していた。 これが幕末ごろの足立郡下戸田村の風景だったようである。

そして同書には「小名」として次のものが列記されている。 元蕨「西ノ方ヲ云 今ノ蕨宿ハコゝヨリ移レリト云サレト年代詳ナラス」上・中・下・前新田・後新田・鬼澤小名とは、集落名で、ホラとも呼ばれ、広義には地名ともなっていた。 人々の住居するところである。 その中でも上・中・下は「中」を基点として、その村の中心をなす地域で、名主層などの有力者の多くはここに住んでいた。

前新田・後新田は、江戸時代の中期以降に新たに開拓して高入地(税地)とされた所で、最近では多くの新田名が住居表示や都市計画などの施行に伴って「新田」の文字が抹消されたものが出ているが、ここも後新田が「後」に、前新田も「下前」というように変っている。 下前は下戸田の前新田というところを省略したものである。

鬼澤も今は、「喜沢」に変っている。鬼の字をさけて「喜」の字に替えたもので、これなどは和銅六年(七一二)の「畿内七道の諸国は、郡、郷、の名に好字を着けよ」との元明天皇の詔勅、延長五年(九二七)の「延喜式」巻二十二(民部式)の「凡そ諸国の郷里の名は二字とし、必ず嘉名を取れ」などが千余年の時空を超えて現代にも生きていた例と思えば、ほほ笑ましくさえ感じられる。

明治八年編さんの武蔵国郡村誌によると、下戸田村には字地として、立野際・赤木・会の谷・鬼沢・細田・雑敷・堤外の名が記されている。この「字」とは公的に認められている土地の最小単位の区域の名称で、かつては耕地名のことである。現在では住居表示の施行によって、この字の名称は使用することが少なくなっているが、もとは一筆ごとに土地にすべて字名があった。

このため字と字の境界は明瞭である。 前に述べた小名=集落名(ホラ)とは使用されるうえで大きな違いがあって、話がややこしくなるが、物理的に申せば、字(耕地名)の上に小名が乗っているわけで、同じ土地の上で二つの呼称が使い分けされてきたのである。

これらの呼称も、字名がそのまま小名として使用されてきたものや、二つの字にまたがっている小名もあったりで、そのさまは一様ではなかったが、人々は使用のうえでそれほど困ることはなかったのである。 同じ土地に二つの呼称が何の無理もなく伝えられ、最近まで使われてきたわけで、考えると面白いことに見えるが、現在でも各地で行われていることである。

字名はその土地の開発の歴史を表わし、小名は人々の生活の歴史を伝えると申したいところながら、小名にも中世以前の発生されたと見られる古い地名もあって、かんたんに区分けできないものがある。古い地名といえば、下戸田一丁目付近は、かつて雑敷(ぞうしき)といわれ、武蔵国郡村誌にも字地として記載されている。

これは、古代中世にあった職制「雑色(ぞうしき)」の遺名と思われるもので、ここにそれらの人の給地かあるいは雑色田があったのかも知れない。

字・小名(集落)名一覧(武蔵国足立郡村誌・新編武蔵風土紀稿から)
下戸田村
(字)……立野際(たてのぎわ)、赤木(あかぎ)、会の谷(あいのや)、
鬼沢(きざわ)、細田(ほそだ)、雑敷(ぞうしき)、堤外(ていがい)
(小名)…元蕨(もとわらび)、上(かみ)、中(なか)、下(しも)、
前新田(まえしんでん)、後新田(うしろしんでん)、鬼沢(きざわ)

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