『戸田市下笹目の由来』(2007.10月 vol.5)

新編武蔵風土記稿によると江戸時代後期の下笹目村には、小名として畑中組、天王組、堀切組、木染組の4つの集落が載せられている。
これらは地続きの土地で、今となってはその境界もわかりにくい、はじめは家と家との結びつきのうえに成り立っていたものと思われる。

この4つの集落をつくる地域はおそらく下笹目の主要部で、早くから人々が生活を営んでいた場所と思われる。
これを裏づけるように同書の木染組のところでは「木染組=或ハ来初トモ書ケリ」と記され、土地の古老も「この辺で一番はやく人が移り住んだ所なので、来はじめの所という意味で『きぞめ』といった。

そのはじめに来た人の子孫という方が大正の頃まで土地に住んでいた」と語っている。堀切組は、人工的に造られた水路か或いは、空堀から出た地名で、それが農耕のためのものか防禦的なものだったが少し気にかかる。
ここは、もともと農耕地帯なので、水路は他にも多くあったものと思われるが、改めて堀切の名称が小名=集落名として伝えていったことは、その堀が何か特別な意味を持つものであった可能性も考えねばならない。

堀切組、木染組は、現在ほとんど地名としての機能を失って、人々の間に忘れられ、わずかに家号としてその名を残すのみとなっているが、畑中組と天王組は、住居表示が施行された現在でも地域名として従来の呼称が健全で、今も生活の中に生き続けている。

なお天王組とは、その地域内に牛頭天王社があったのでついた地名、畑中組、天王組ともに近代となっては組の文字がとれて、ただ畑中、天王とだけ呼んできたが、畑中はいつか文字が変わって「はたけなか」と書かれている。
小名あるいは集落名に「組」の文字をつけているのは戸田市内では下笹目だけと思われるが「組」とは他の地域での「洞=ほら」に当たるものであろう。

早瀬とは、いうまでもなく荒川(旧入間川)の流れから生まれた呼称で、それが何時しか、その付近の地名となり、ついには村名にまで成長したもので、荒川がまさに母なる河であったわけである。
早瀬川はその後、明治初年に本村の下笹目村に合併しているが、この早瀬村の小名には、「上宿・中新田」があった。
上宿は渡し場の近く、中新田は、それより西北方にあったと伝えているが、上宿とは鎌倉街道の遺名かとも考えたくなる地名で、おそらくは渡しの向こう側(南方)の赤塚(板橋区)あたりに、元宿か下宿があっての上宿なのかもしれない。

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