『戸田市笹目の由来』(2007.8月 vol.4)

笹目といえば、住居表示によって区割りされた今の笹目一丁目から八丁目、同じく笹目南町と笹目北町、早瀬を指すものと一般的にはとらえられているが、本来このあたりは中世の佐々目郷(後の笹目領)の一部で、近世以降の下笹目と右衛門村、及び内谷村の一部の区域に当たっていた。

現在のような「笹目」のとらえ方は、下笹目の「下」の一文字を省略したことから生じてきたもので、その起こりの一つには、明治二十二年(一八八九)四月に公布施行された市制町村制によって、明治十七年(一八八四)五月以降続けてきた美女木村連合戸長役場が解体して、新たに美谷本村と笹目村が誕生したことがあげられる。

この法律によって造られた新しい村や町の出現は、まさに人心を一新し、その後の地方行政が大きく変わっていくことになるが、美女木村連合戸長役場は、埼玉県の指導下にあっても従来の名手クラスによる連合体としての行政が行われていたので、そのなかの指導力のある人が連合戸長ととなっていたものの質的には旧来の制度の延長で、その区域の村々も昔のままに、例えば美女木村とか下笹目村として変わるところはなかったのである。

そして美女木村とか下笹目村とか何百年も永く呼びならされ、親しんできたこの村こそが、「おいらの村」と思っていたのが、その上に新しく美谷本村とか笹目村という大きな村ができて、おいらの村が消え、大字美女木とか大字下笹目となり「村」ではなくなってしまったのである。

このとき笹目領の古い連携から離れた二つの村の成立は、その後、五十余年間も別個の村としての歩みを続けることとなり、そしてこの行政地名が定着していったのである。

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